書評「アフターデジタル2 UXと自由」

著:藤井保文

中国などのオンラインビジネスに豊富な経験を持つ著者によるデジタル社会の今後を強いメッセージ性と多くの調査、リアルなビジネス経験談にて構成されている。全体として、中国企業の圧倒的なチャレンジ精神、スピード感、規模間で進める戦略が克明に描かれている。消費者行動、心理を観察、分析し、必要なビジネスを立ち上げていく緻密さとダイナミックさは日本は到底追いつけないレベルに達している感じがした。


自分は、細やかな分析は日本人や日本企業が得意、と思っていたが、本書に登場する企業群は、膨大なデータ基盤を構築し、そこから新たにビジネスを立ち上げていくスピード感に長けており、また、既存のデータプラットフォームの上で何ができるかを冷静に見ている。
日本人にありがちな思想として、「デジタルに頼りすぎると、人間味がなくなる」という考えを持つ人がいるが、本書に登場する主に中国の企業は、人々の生活がより便利になり、ゆとりの時間が生まれ、人とのコミュニケーションがより円滑になるサービスを提供している。コーヒーだったり、金融だったり、宅配だったり業種は様々だ。
そして、それらがプラットフォーム化され、さらにそのプラットフォームの経済圏の上で動くミニアプリと呼ばれるサードパーティーのサービス開発が盛んだという。
少なくとも、そうしたサービス提供をダメもとでもチャレンジはしてみて、そこから良いも悪いも結果を吸収して次につなげていっている。やる前から懸念事項だけ並べて何もやらない体質とは大違いだ。この実務を通して得られる経験値の差は、今後の国別の産業成長力に大きく響いてくる危機感を覚えた。

世界の産業の収益のレイヤー構造がまた一段上がった気がした。エネルギーだったり、製造業だったり、ソフトウェア、OSなど産業構造のレイヤーが積み重なっていくが、おそらく最上位の消費者意思決定レイヤーは、サービス上のサービスになりつつある気がした。日本は大きくこの世界的競争に乗り遅れている。巨大なプラットフォームを有している企業は数えるほどしかなく、それが他社との連携がなされているオープンプラットフォームかというと、そうでもない。
IaaSのクラウド基盤の多くは、海外企業が活躍し、PaaS、SaaSも多くが海外企業だ。その海外プラットフォームの上で、多くの日本のサービスが群雄割拠している。
もっともっと我々はチャレンジとアイデア、そして本質的な他者理解を深めなければならないと感じた。

中国はてっきり掃除機のようにデータを吸い上げてビジネスをしているのかと思ったら、意外とそうでもない。コストと効果を天秤にかけて不必要なデータ収集はしないし、データ収集した以上は顧客に還元できるサービス提供をしないと、顧客離反を招いてしまうとのこと。
本書で印象に残ったのは、以下の文章。

中国では民間企業も大量のデータを保有していますが、そうした企業は社会的責任としてのハイレベルな精神を持っています。以下に示すのは、ある中国企業の幹部と話していたときのことです。

「日本では、使いもしない情報をユーザーに入力させ、そのデータをアップセル・クロスセルにしか使わない企業もまだまだ多いんだ」
「それは、ユーザーに不義理だよね。ユーザーは君たちにデータを提供してくれているのに、君たちはそれを自社の利益のためにしか使っていないということでしょう? それでは、企業とユーザーの取引関係が成り立っていない。ユーザーから信任されず、愛想をつかされてしまうよ。重要なのは、いかにユーザーに価値を提供し、ユーザーに愛され、使い続けてもらえるかだよ」

2%あたりの位置より

「藤井さんが考えている、データエコシステムとか、データの売買という考えは、すべて幻想だよ」
(中略)
「しかも藤井さんが言っているのは生体データだから、買った・買ってないのような単純なイエス・ノーのデータではなくて、波形データだよね? そうすると、そんな生データをもらったところで、誰も解釈ができないよ。皆、そのデータが何に使えるのかというベネフィットが分からないと、わざわざデータを買ったり使ったりしてくれないし、ベネフィットが分かってもデータの値付けはかなり難しいよ。というか、単一のデータではあまり意味がないので、とても安いものにしかならない。
(後略)

51%あたりの位置より

確かに、その通りだなと思った。
例えば、IoT機器からの収集データをいくら集めたところで、そこからソリューションをセットで作らないと、波形データには何の意味もない。
つまり、「データをたくさん集めました。すごいでしょう。」の前にそれをどう活用するか、分析の仮説が少なくとも必要だということ。
コロナ感染拡大の中、いろいろと一層の発想の転換が必要と気づかされる内容であった。